○ 当時、暦計算の実働部隊となったのは、学徒動員された高等女学校の生徒達など大勢の若い女性達でした。海軍の技術者達の指揮の下、算盤や手回し計算機を使って、人海戦術で「天体暦」、「航海暦」の編纂に当たりました。これらの暦は戦争を続けていく上で不可欠なものでした。
しかし、戦況の推移につれて築地の水路部庁舎では危険となったため、都内各地や、さらには空襲の激化とともに地方に疎開して業務は続けられました。
それらの女性達の多くは、戦後も同じ業務を続けました。「天体暦」、「航海暦」は平時においても商船隊などのために必要であり、コンピュータが導入されるまではやはりその計算に多くの人手を必要としたのです。彼女たちは今も「星の友会」の有力メンバーです。
○ この写真は立教高女(久我山)でのものです。
○ 休み時間でしょうか。仲間達とのスナップです。
○ 送別会の記念写真のようです。
○ 同じく、立教高女での写真と思われます。
○ 神田駿河台の「主婦の友社」も作業の舞台になりました。
"(( 掛" とあるのは "月 掛" です。月の位置の推算を行っていました。
○ 岩手県水沢の緯度観測所内にも事務所は移されました。この人達はそのままそこで終戦を迎えました。
○ 緯度観測所内でのスナップです。
○ 岡山県笠岡の分室です。
○ この写真の詳細は不明です。
○ 海軍水路部九品佛分室における"コンシン会"とあります。"戦中閑あり"だったのでしょうか。